3-1 幕末期の米国留学と今

 

 ニューヨークから南西に五十・程行くと、NJ州ニューブラウンズウィック市にあるラトガース州立大学のキャンパスが見えてくる。1766年創立、全米で八番目に古い歴史を有する大学である。ここは知る人ぞ知る幕末期の秀才・日下部太郎(1845~1870:旧名・八木八十八)が、日本人留学生第一号として米国大学を最初に卒業したとされるエリア。非凡なるが故、米国でも日本でも惜しまれながら卒業直前、弱冠二十五歳で客死した場所でもある。その墓は公立図書館の裏手ウィロー・グローブ共同墓地にある。今年五月の訪米時立ち寄った。そこは「日本セクション」と呼ばれる鐵枠で囲まれた一区画。日下部以下六人の、高さ二m程の白い御影石のようなオベリスク状モニュメントは風化が進み、墓石の氏名墨書などは侵食され無い。彫られた文字は「大日本越前日下部太郎墓」。越前の文字が大日本と日下部の間に小さく控え目に彫られてあり、死亡年月日が明記されている。日下部を憂国の士として高く評価した当時のキャンベル学長の弔辞によると、結核で死の床に伏してもなおキリスト教に改宗することなく「武士」のまま他界したとの事である。余命幾ばくもなくとも書物を離さず、指導教官から本を取り上げられる程学業熱心であった日下部の墓は、少し荒廃しており、供養の花入れも倒れたままであった。墓参の帰途ラトガース大学アレキサンダー図書館を訪問し、大学記録保管所・特別コレクションのF・ぺローン館長(Curator)とお会いした。ここはグリフィス・コレクションとして関係図書などを収納した一室。黎明期の日本で後に「お雇い教師」となったグリフィスに日下部はここでラテン語を習ったのである。館長は日下部の関係歴史文献を入れた二つの紙製ファイルボックスを取り出して来た。文献は決して多くない。幾つかの英文の刷り物、写真に混ざり、山下英一、高木不二、阿部珠理など各氏による地道な研究の一端となる邦文コピーが納められていた。

 

 日下部太郎は十三歳で越前福井の藩校明道館に入学、二十一歳のとき洋学の中心地であった長崎遊学の命をうけた。そこでオランダ改革派教会の宣教師G・F・フルベッキから英語を習い、「彼ほどの明敏な日本人は見当たらない」との強烈な印象を与えた様子である。宣教師とラトガース大学がオランダ系だった縁で、日下部はこの大学へ留学したのであろう。日下部渡米時のアメリカは南北戦争が終了した直後。他方、フルベッキはかねがね鎖国体制を批判していた幕末期の政治家・横井小楠の甥にあたる横井左平太・太平兄弟も教えており、彼らは日下部に先んじてラトガースへ向けて密航したのである。小楠は山林等を売って甥の留学費を工面したが、当時の千両など米国に着くまでの約半年間で全て消費したそうである。二人は鎖国体制崩壊直前のため密航の形となり、名前を伊勢佐太郎、沼川三郎と変名しての私費留学渡航だったのに対し、日下部太郎はいわゆる公費留学。維新直後で給付金の内容は刻々変化したようであるが、当初越前藩から年百両、のちに二百五十両。一八六九年には明治維新政府から公式留学生として六百両が支給された。しかし年平均一千$必要といわれた留学費用には程遠い内容だったようである。それは日下部の実家・八木家にも多大の負担を強いた。留学費不足で困っている旨の太郎の報に、父・郡右衛門は相当の工面をし「大借金の八木家」となり、世間から誹謗中傷を受ける有様。「事情をよく勘案し帰国を願う」といった心を打つ切々たる手紙が残っている。父は一八六九年に太郎の弟次郎、三男を相次いで亡くし、その上藩政改革で福井藩の御使番を免じられ、経済的にも精神的にも奈落の底へ。その翌年、家族及び藩の至宝・太郎が客死したのである。

 

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